◆双葉郡富岡町の三瓶さん 訪問
たらちね見学を終えた私たちは直ぐにいわき市から双葉郡富岡町へと移動して、三瓶一義さん・きい子さんご夫妻のお宅を訪問しました。
2011年3月12日、福島第一原発から10キロ圏内の富岡町にも避難指示が発令され、三瓶さんご夫妻は福島市に避難されました。福島市では富岡町からの避難者は仮設住宅ではなくそれぞれが民間借上住宅での避難生活でした。それでも同じ町民同士で励まし合い、情報交換もしたいということで「富岡町さくらサロン」というスペースの運営がはじまりました。
浄土真宗本願寺派北海道教区の重点プロジェクト実行部会(略して重プロ)とみみすまは、2016年から毎年「原発被害現地学習会」を実施しましたが、現地コーディネーターを担っていただいた佐々木さんが第一回目に福島市の「富岡町さくらサロン」を私たちに繋いでくれました。こうしてさくらサロンの重鎮のおひとりだった三瓶さんには2016年の時から毎年お世話になりました。また浪江町の避難者が多く暮らしていた福島市の「北幹線第一仮設」を紹介いただいたのも三瓶さんでした。重プロとみみすまは、2016年にこの「北幹線第一仮設」の集会所で慰安の落語会(上方落語・笑福亭遊喬師匠)をひらくこともできました。
そんなご縁をいただいた三瓶さんご夫妻は自宅地域が避難指示解除となり、2018年から富岡町の自宅に帰還されました。でも地域にはなかなか元の住民は戻らないままで寂しい状況だと佐々木さん経由で近況報告を受けていました。2019年10月の現地学習会の際にはぜひお会いしたかったのですが、ご不在でしたので今回は4年半ぶりの再会でした。
現役時代の三瓶さんは農林水産省の福島県職員として浜通りの農業振興のお仕事をされていました。東京電力が福島に第一原子力発電所を建設しようとした1967年当時、三瓶さんは労働組合のメンバーとして原発建設の反対運動を行ったそうです。
「当時、原発は安全で素晴らしいと言われていたが、私たちは事故が起きれば農業も漁業も全てだめになる!と反対した。でもそれがこうして現実のものになって本当に無念ですよ。富岡町の自宅に帰ってきたのは、自分も畑や田んぼを試しながら、なんとか浜通りの農業が再生していく道を微力ながら私も考えてみたいと思ったからです。」と三瓶さんは語ってくださいました。そして今回訪問した5名それぞれにご夫妻が栽培した新米「天のつぶ」をお土産にとプレゼントいただきました。私たちは相変わらず気骨あふれる三瓶さんを尊敬しています。本当にありがとうございました。
◆大熊町大川原地区の教育施設「学び舎ゆめの森」建設現場
富岡町を出発した私たちは急遽予定ルートを変更して、たらちねの鈴木さんからお話をきいた双葉郡大熊町の「学び舎ゆめの森」建設現場に行ってみました。学校は大川原第2災害公営住宅のすぐ裏手に高速道路と隣接する形で建設が進んでいました。
*大熊町管内図(2022.07.01現在)
https://www.town.okuma.fukushima.jp/uploaded/attachment/7449.pdf
*大熊町「2023年、学び舎ゆめの森が開校します」
https://manabiya-yumenomori.ed.jp
最後に、仙台空港方面へと向かう高速道路の車窓からも大熊町の学校建設現場を眺めました。大熊町から会津その他に避難したお母さんたちが安心してお子さんを連れて帰ってこられる町は誕生するのでしょうか。情報を隠蔽せずに、お金をかけた見た目の良さで人々を惑わすことのない、安心して暮らせる社会を私たちは望みたいと思います。
◆最後に・・・
3年ぶりの福島県訪問では、3日間で、7市町村11ヶ所をまわりました。再会が叶った方たちとは一緒に活動した思い出や近況を語り合うことができました。最終日に合流いただいた昼間さんもありがとうございました。原発から10キロ圏内に帰還された三瓶さんご夫妻の思いを昼間さんと共有できて本当によかったと思います。お仕事を休んで3日間お付き合いいただいた佐々木さん、今回もありがとうございました。佐々木さんのお子さんも橋本さんや緑川さんのお子さんも今は大学生となりそれぞれの道を歩んでいます。被災地で出会ったお子さんたちも、避難してきた札幌で出会ったお子さんたちも、保養で北海道にやってきたお子さんたちも、みんな生き生きと羽ばたくことができるようにと願っています。さいごに、2022年12月17日に12歳で天国へと旅立ったAくんのご冥福をお祈りいたします。
Aくんの鉛筆画 タイトル『野球やりたいな』